第壱話 月ノ光
その夜のことを、聞きたいっていうのかい?
あれは、俺がまだ二十三、四の頃だった。その頃の俺は、惚れに惚れ抜いてた女に棄てられたばっかりで、酒浸りの毎日を送ってた。酒という酒なら、なんでも口にした。ジン、ウイスキー、ブランデー、ウォッカ、テキーラ……酒飲みが最後に行き着く酒って誰かが言ってやがったアブサンも、搔っ食らうように飲んでいた。味なんざ、わかりもしなかった。ただ、自分の精神をフリスビーみたいに遠くにうっちゃりたくて、投げ飛ばしたくて、瓶を空にしてた。自分のだか、他のどいつのだか分からない吐瀉物にまみれて、路地裏で朝を迎えるなんてことだって、よくあることだった。何もかも忘れたくて、虚無感に呑み込まれそうな自分から必死で逃げたくて、アルコールの波に全てを委ねていた。
その夜も、俺はもつれた足で、朦朧とする意識を抱えながら歩いてた。七月の夜に浮かぶ三日月は、やけに綺麗で、なんだか虹色に輝いて見えた。俺は、裏道で座り込んで、ゴミバケツにもたれかかりながら、その月を見上げた。両手の親指と人差し指で、小さなファインダーをつくって、夜空を切り取った。
そうしたら、夜空がそのまま、三日月を抱えたまんま、俺の掌に舞い降りてきやがったんだ。何を言っているか分からないって? 俺だって、今も信じられねえよ、透明なフィルムみたいに、紺色の夜空と虹色の三日月が薄い膜になって、俺の掌にぷるんぷるんと震えているだなんて。しかも、ほんのりと暖かいんだよ。なんでだかはわからないけど、暖かくて……そして、涙が出そうになるほど懐かしかったんだよ。
俺は慌てて、夜空を見上げた。そこには、深酒で血走った大きな右目があった。目の端のほくろには、見覚えがあった。ぞおっとした。俺の、俺の右目だったんだよ。俺の右目、ほら、この端にほくろがあるだろう? この目が、切り取られた夜空の代わりに、俺を見ていたんだよ。
声を上げようとしても、舌がもつれちまって、涎しか出てこねえ。俺は、掌の夜空と三日月をこぼさないように、しっかり抱え込みながら、背中を丸めた。
気がついた時には、白い天井を見上げていた。右腕に痛みを感じた。点滴だった。俺は意識混濁で、救急車で運ばれていたらしい。故郷の母親が、涙ながらに繰り言を言っていた。それからしばらくの間、俺は故郷に帰って過ごした。酒は、きっぱりと止めた。
そうだな、その夜も、こんな三日月の夜だったよ。お前さんが今、掌の中に抱えている夜空と三日月も、その夜と同じだ。そら、ぷるんぷるんと震えてやがる。昔の哲学者が言ってただろ、深淵ってやつを覗き込む奴のことは、深淵もまた見返すって。つまりは、まあ、そういうことだよ。その奥に、何を見るかはお前さん次第ってわけだ。
(ドビュッシー作曲「月の光」)
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