2020.08.05 01:36第拾六話 月の欠片 あるところに、貧しい羊飼いの青年が住んでいました。青年は、幼い頃に両親を亡くしましたが、羊達と共に穏やかに暮らしておりました。 あるとき、青年は森の奥の泉に笛を吹きに行きました。わけもなく悲しいとき、寂しいときは、青年はいつもこの泉のほとりで笛を吹いていたのです。 今日は、その泉に先客がいました。長い、しなやかな絹糸のような金髪をもったひとりの娘が、泉の水...
2020.08.03 04:00第拾伍話 水の戯れ 気がついたら、あたしは浮かんでいた。飛んでいた。光のカーテンに包まれながら、上に行ったり、下に行ったりを繰り返しながら、漂っていた。息をすると、冷たい水が体の中に入ってくる。苦しくない。水の中から、自然と酸素を取り込めているのがわかる。 あたしは身をよじった。透明な体。水の流れに身を委ねながら、体を伸ばす。あたしは、どこに行くのだろう。どこから来たのだろう...
2020.07.29 00:35第拾四話 海を見ながら 初詣に行った帰り、熱い甘酒を手袋をした手で包みながら、私は近くの海に行きました。境内を通る時には、名前はわからないけれど、お正月になるといつも聴く琴と尺八のあの曲が流れていました。 海に行くと、私はいつもじいちゃんを思い出します。漁師だったじいちゃんはとても真面目な人で、休みの日も網を繕ったり、いつも仕事のことで頭がいっぱいだったと、ばあちゃんは笑います。...
2020.07.28 02:30第拾参話 亜麻色の髪の乙女 昨日の話の続きをしよう。百合の花のように気高い、彼女の話だ。 六年生のピアノの発表会で彼女が弾いたのはドビュッシーの小品ふたつ。その中に「亜麻色の髪の乙女」も含まれていた。亜麻色、ってどんな色だかは分からなかったけれど、ドビュッシーの胸を掴まれるような和音の構成も相まって、僕にとっては特別な曲になった。 演奏を終えた僕らは微笑み合って、全員での集合写真では...
2020.07.27 01:00第拾弍話 夢の情景 子供の頃に、初めて出会ったその人は、とても気高い人でした。教室の喧噪の中で、ひとり、まるで百合の花のように輝いていました。僕は、息をするのを忘れて、彼女の横顔を眺めました。 彼女がピアノ教室に通っていると知って、僕もピアノを習いたいと思いました。共通項が出来たとはいえ、ピアノ教室でも、学校でも、なかなか話しかける勇気は持てませんでした。百合の花のような、高...
2020.07.22 01:05第拾壱話 Luz y Sombra スペインの太陽は、強くて乾いている。容赦なく、体内の何か大事なものを奪い去っていくようだ。 コルドバの街を、私はあてもなく彷徨っていた。昔からガルシア・ロルカに惹かれてやまなかった私は、日本の美術大学を卒業後、単身スペインに渡った。地元の美術学校にも通った。様々な街を渡り歩いた。そしてガイドをしながら、自身の創作活動を続けていた。だが、最近はどうも描けない...
2020.07.17 06:10第拾話 朝の欠片 どうしてだかはわからないのだが、環状線から降りられない。もう何時間も、だ。次の駅で降りようとしても、降りた途端に景色は反転してしまう。そして、僕はまた電車の中に閉じ込められるのだ。これが、何回も、何十回も、何百回も繰り返された。諦観と共に、窓の外を眺める。見慣れた景色はいくつも過ぎていった。 不思議なことに、この車両には僕以外は誰も乗って来ない。両隣の車両...
2020.07.17 05:45第九話 星空の向こうに 妻と、区民参加のベートーヴェンの第九の合唱団に入団することにした。新年度から専門家の先生の指導が始まって、四月から八ヶ月かけて、年末の演奏会までにドイツ語で歌えるようになれるという。私は最初乗り気ではなかったのだが、合唱部出身の妻がどうしてもというので、しぶしぶ一緒に申し込んだ。 最初のパート分けでは、妻はアルト、私はテノールになった。旋律を歌いたかったと...
2020.07.15 01:30第八話 彼は小鳥と話す やあ、今日も来たね。みんな、やって来たね。昨日はどこまで話したっけ。そうだった、モーセが海を開いたところだったね。うん、うん、待っていて。そんなに急かすんじゃないよ。 でも、よければ、今日は君たちの話を聞かせてほしいんだ。みんなが、僕の話をどうしてそんなに聞いてくれるのか、僕に教えてほしいんだ。だって、僕は君たちにパンを与えるわけでもない。もちろん、葡萄酒...
2020.07.15 01:00第七話 七つのヴェイル さあ、お前、よおくその顔を見せてごらん。その顔に刻まれた印を見せてごらん。お前が生まれて、そして命を絶ったその訳を、あたしに聞かせてごらん。 あたしに隠し事をおしでないよ。あたしは、ここからずっと眺めていたんだ。お前が何に心を惹かれ、何に心を捧げたかを、あたしはよおく知っているよ。 おまえは大いなる存在に心を捧げた。それは、お前の中に巣喰う影から逃げ出そう...
2020.07.14 05:30第六話 世界の解 その初老の数学の先生が、バッハが好きだと知ったのは、補習授業でのことだった。「平井はピアノを弾くんだったら、数学のことも少しは分かった方がいいぞ」「ピアノと数学は、関係ありませーん」「だがなあ、古代ギリシャでは天文学とかと並んで、音楽と数学は万物を解き明かすための学問とされていたんだぞ」「へえ」「お前、音大行きたくて、音楽理論とか学んでるんだろ? 音楽理論...
2020.07.14 04:15第伍話 ひとつぶ、金平糖 夕暮の公園で、紙芝居を見た。本当だったら、そんな時間にそんな場所にいるはずもないんだが、その日は会社から戦力外通告を出されたもので、昼過ぎから同じベンチでぼんやりしていた。そんなところに、昔ながらの紙芝居屋がやってきた。紙芝居屋は、律儀に俺のベンチの前にやってきて、そして紙芝居を始めた。観客は、俺一人だった。内容は心の表面を上滑りしていったが、誰かと時間を...