第弍話 仔犬は踊る


 あたしが小さなとき、その真っ白な仔犬はもっと小さかった。その子がうちに来たときから、小さなあたしたちは、すぐに仲良くなった。あたしがお姉ちゃんで、あの子が弟。ずっと、そう思ってた。




 あたしがピアノの練習をしているとき、あの子は真っ黒なつややかな瞳でこっちを見て、お利口に首を傾げて、あたしのへたっぴなハノンやバッハを聞いていた。どんなに指が回らなくても、もつれても、椅子のすぐ脇に座って、お利口にあたしを見上げてた。練習がいやになっちゃうときもあったけど、そんなときは、あの子のふわふわの頭をなでて、また鍵盤に向かった。




 あの子は、特にショパンが好きだった。あたしが、ショパンを弾けるようになったら、それまでずうっとお利口に座っていたのに、立ち上がって自分の尻尾を追っかけるみたいに、くうるくうると回りだしたの。そして、高い声で長く鳴いたの。あの子がそんなことをするのは初めてだったから、びっくりした。でも、桃色の舌をちろりと出して、ハッハッハッハッと興奮しながら、あたしを見上げてるあの子を見たら、なんだか嬉しくなっちゃった。この子と、音楽を通じて会話出来たような気がしたの。




 だから、あたしはショパンを弾くのが好きになったの。大人になってからも、どんなコンサートでもショパンを必ず入れるようになったのは、それも大きいんでしょうね。そうね、あなたのおっしゃる通り、あたしのアンコール曲の定番は《子犬のワルツ》。あの子がそばにいてくれるみたいでね、子供の頃のピアノ部屋に帰ったみたいな寛いだ気持ちがするの。あの子が聴いてくれるのが、嬉しかった。あたしにとって、最初の聴衆だったのね。




 ワルシャワに演奏旅行に行ったとき、冬で寒くて、極度の緊張もあって、舞台袖で凍えそうなとき、足元をふんわりと白い影がよぎったの。そして、なんだか温もりを感じたの。あの子だ、って思った。すぐに、わかった。ああ、あたしの音楽をいつも聴いてくれてたんだな、ってわかった。あの子、本当に律儀な子なんだから。わかるわよ。




 いまも、そこにいるんでしょう? あなたと一緒に。ううん、隠しても無駄よ。正直におっしゃいな。ほら、そこで白い影が踊ってるじゃないの。あの子があたしの最後の演奏を聴かないはずがないでしょう。わかるのよ、あたしには。




 あなたも、よければ聴いてちょうだいね。さあて、お茶を一杯飲んで、いつものようにショパンを弾いたら、ご一緒に参りましょうか。






(ショパン作曲:子犬のワルツ)

幻想音楽奇譚

名曲の調べと共にお届けする、不思議な物語。

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