第四話 言葉なく、歌う
僕がチェロを弾き続けたのは、それだけが父さんと繋がれる手段だったからだ。母さんを早くに亡くした後、父さんはまだ幼かった僕を、自分の姉夫妻に預けた。父さんは世界的なチェリストだったから、僕を育てていくためには、僕を残して世界中に仕事に回らなければならないのだと、僕のおばさんに当たる優しい女性は、繰り返し教えてくれた。
運動会や、学芸会に、いつもおばさんは来てくれた。おじさんも、仕事の都合をつけて、来てくれた。兄貴分にあたる、自分たちの息子と同じように可愛がって、育ててくれた。先生たちとも、友達とも、うまくやってこられた。
それでも、僕の中にはどうにもならない乾きがあった。ひりひりと灼け付くようで、どれだけ優しい言葉をかけられようと、どれだけテストでいい点数を取ろうと、そのひりひりが収まることはない。癒えることのないアトピーのように、どんどん熱を持って、乾いて、白い粉を吹いていく。ざらざらとして、硬くなっていく。
そんな時、僕は父さんのCDを聴いた。バッハの無伴奏。ドヴォルザークのコンチェルト。そして、メンデルスゾーンの無言歌。そんな時だけ、僕は息が出来るような気がした。深海の底で、同種の魚と巡り会えたような気がした。世界のどこかで、父さんもまた、どうにもならない、ひりひりとした乾きを抱えながら、みずからの深い孤独と向き合い続けている気がした。
父さんは、自分の姉にあたる僕のおばさんに、養育の条件として「この子に、チェロだけは続けさせてください」と頭を下げてお願いしたそうだ。だから僕の養育費には、チェロのレッスン費用も含まれていた。兄貴分にあたる、おばさんの息子からは「いいよなー」とよく言われたが、彼の関心はそれよりも自分が所属するリトルリーグにあることを、僕はよく知っていた。兄貴分がふざけて「いいよなー」という度に、僕は彼に野球のボールを投げた。兄貴分は、それを笑って受け止めた。明るい彼は、商社に入社して、海外赴任した。
たまに日本に帰ってきた時に、父さんは僕のレッスンを見てくれた。僕も、父さんも、チェロを介してなら、繋がることが出来た。逆に言えば、チェロがなければ、どうやって親子の会話というものをすればいいのか、全くわからなかった。レッスンが終わって、父さんが淹れてくれた紅茶を飲みながら、ぎこちなく過ぎていく無言の時間をどうすればいいかわからなかった。僕は不器用な道化になって、学校や、おばさんの家でのことを面白おかしく話した。父さんが、ゆっくり微笑んでくれると、とても嬉しかった。
けれど、父さんの音をずっと聴き続けて来た僕には、自分には父さんを越えられる音を出せないということが、痛いほどに分かっていた。無論、父さんもそれは理解していた。それでも、僕たちの音楽の時間は、ぽつりぽつりと続いた。僕が、理工学部への進学を決めたことを告げた時の父さんの横顔は、寂しそうでもあり、どこか安堵したようでもあった。
「チェロは、人間の声にとても近いんだよ。だから私達はきっと、心の奥底に溜まったままの、言葉にならない声を、歌い続けていく使命を持っているんだよ」
僕が子供のころからの、父さんの口癖だった。大学でも、勤め先の銀行でもオーケストラに所属するようになった僕は、自分が父さんの息子であることを隠した。僕には、父さんのような、その使命を果たしていく事が出来ない。そんな後ろめたさと、寂寥感があったからかもしれない。
結婚して、妻が子供を産んでくれた時、父さんはとても喜んで、僕たちの子供のための録音を送ってくれた。妻は僕以上にその録音を気に入って、息子を寝かしつける時にいつも流していた。「お義父さんのチェロは、本当に優しい音色なのね」と、妻は寝ぼけ眼でつぶやいた。僕は今まで、孤独や乾きへの共感は感じても、父さんの音色を優しいと感じたことはなかったので、とても驚いた。そうか、父さんは優しい人だったのか。
父さんの面影を偲ぶようになって、どれほどが経つだろう。鏡の中の自分が、在りし日の父さんに似ていることに気がついてからは、毎朝鏡を見ながら、「おはよう」と挨拶をしている。息子には、チェロは習わせなかった。本人も、それは望まなかった。それでいい。誰に似たのかはわからないが、今はWEBデザイナーとして身を立てている。
最近は妻が聴きたがるので、僕は毎週日曜日の朝にチェロを弾いている。けれど、1曲聴くと飽きて出て行ってしまう。妻の背中を苦笑しながら見送る。父さんが抱えていたチェロを、今は僕が抱えている。
Aの音を鳴らす。丁寧に、丁寧に。深い息を吐きながら、骨盤から、肩甲骨までの骨や筋肉の繋がりを、細かく観察しながら。父さんの声を憶い出しながら、僕は目を閉じて、深く息を吐く。Aの音が、体の奥に深く共振する。父さんから受け継いだ僕の何かが、Aの音の中に、静かに溶けていく。言葉にならない声。こういうことなのかな、父さん。
(メンデルスゾーン作曲:「無言歌」)
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