第伍話 ひとつぶ、金平糖


 夕暮の公園で、紙芝居を見た。本当だったら、そんな時間にそんな場所にいるはずもないんだが、その日は会社から戦力外通告を出されたもので、昼過ぎから同じベンチでぼんやりしていた。そんなところに、昔ながらの紙芝居屋がやってきた。紙芝居屋は、律儀に俺のベンチの前にやってきて、そして紙芝居を始めた。観客は、俺一人だった。内容は心の表面を上滑りしていったが、誰かと時間を共有出来ている温かみが、今の俺にはありがたかった。



 やがて、紙芝居は終わった。俺は、千円札を財布から抜いて、紙芝居屋に渡した。そうすると、紙芝居屋は小さな瓶に入った金平糖をくれた。



「魔法の薬ですよ」

「魔法の薬?」

「ひとつぶ舐めると、あなたの心は思いのままに。ふたつぶ舐めると、どんな人の心も思いのままに。みつぶ舐めると、世界は思いのままに。でも、全部は舐めきらないこと。この世界に戻れなくなってしまうから」



 夕暮の太陽に小瓶をすかしてみると、白や水色、緑の金平糖がきらきらと光を反射した。瓶を少し振ってみると、しゃらしゃら、という小気味いい音がした。何を言っているんだと思いながらも、俺は礼を述べて、公園を後にした。



 家に帰ってみて、俺はひとりの部屋でベッドに寝っ転がりながら、紙芝居屋にもらった金平糖の小瓶を眺めすかしていた。まあ、ひと粒舐めてみるか。



 すると、視界が揺れた。ぐんにゃりと歪んでいく。マーブル模様のように溶けて、混ざっていく。俺は、目を閉じた。



 気がつくと、天井が高い。体が軽い。伸びをすると、目の前に毛むくじゃらの前脚が見えた。掌を見ようとすると、薄桃色の肉球が見えた。わああ、と叫ぼうとすると、ミギャーという唸り声しか上がらない。鏡の前へ急ぐ。そこには、黒白ブチの猫がいた。猫だ。俺は鏡に近付く。猫もまた、俺に近付く。どうやら、紙芝居屋の言っていた魔法の薬というのは、本当らしい。



 俺はどうしようか迷った挙句、ベッドに飛び上がって丸くなった。今夜はどうにも眠い。街に行ったりするのも悪くないかもしれないが、ベッドの上に散乱している洋服や下着を見る限り、人間に戻った時には真っ裸になってしまうことを考えると、気がひける。それよりは、まずは寝よう。俺は、前脚の間に顎を乗せて、目をつむった。息をするたびに、揺れるヒゲの感覚が新鮮だった。



 朝起きた時には、俺は人間の体に戻っていた。大きく欠伸をして、俺はシャワーを浴びにバスルームに向かった。



 それから、その金平糖の小瓶をどうしたかって? 別段、猫になる趣味はなかったもんで、それ以来舐めてないんだよ。どんな副作用があるかも分からないしね。でも、自分の体の殻を抜け出して、違う存在になった経験ってのは、悪くないものだった。仕事も新しく始められたし。紙芝居屋はあれこれ言ってたけど、自分の心さえ思い通りになれば、意外と世界ってどうにかなっていくもんなんだね。




(チャイコフスキー作曲:《くるみ割り人形》より「金平糖の精の踊り」)






幻想音楽奇譚

名曲の調べと共にお届けする、不思議な物語。

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