第拾話 朝の欠片
どうしてだかはわからないのだが、環状線から降りられない。もう何時間も、だ。次の駅で降りようとしても、降りた途端に景色は反転してしまう。そして、僕はまた電車の中に閉じ込められるのだ。これが、何回も、何十回も、何百回も繰り返された。諦観と共に、窓の外を眺める。見慣れた景色はいくつも過ぎていった。
不思議なことに、この車両には僕以外は誰も乗って来ない。両隣の車両はあんなに混み合っているのに、この車両には誰も乗って来ない。新しい駅に着いて、扉が開いても、この車両の前だけはやけに空いている。
大掛かりな、新しいドッキリだろうかとも思う。それとも、いま流行りの社会実験か。どこかにモニターが仕掛けられていて、僕の様子が実況中継されているのではないかとも思ったりする。確かめようにも、スマホは家に忘れてきてしまった。こんな時に限って、なんて頓馬なのだろうかと、自分自身にうんざりする。
もしかすると、どこかで僕は命を落としていて、この電車にいるのは魂だけなのだろうか、とも思ったりする。だってそうだろう、何時間もこんな状況が繰り返されるなんて、おかしなことだろう。僕は頭を抱え込む。同時に、喉の乾きを覚える。鞄の中にペットボトルの麦茶があったことを思い出して、蓋を開けて、喉を鳴らしながら飲む。喉が乾くってことは、まだ生きているということか…と、安堵する。
次の駅に着いた。また同じ繰り返しか。そう思って扉を眺めていると、ひとりのランドセルを背負った少年が乗り込んできた。僕は驚きのあまり、なんにも言えず、その少年を見つめた。少年は、きょろきょろと辺りを見回す。僕は、我に返った。こんなところに子供がいちゃいけない。いつ出られるか分からないこんな電車に乗ったらだめだ。
僕は、立ち上がろうとした。しかし、足がもつれて立ち上がれない。僕は、無様にも床に転がった。小さな、軽い足音が近付いてくる。見上げると、さっきの少年と目が合った。少年は、にっこりと僕に笑いかけた。
「お兄さんも、朝の欠片を探しているの?」
「へ?」
「たぶん、たくさん、たくさん探して回ったんだね。大丈夫だよ、あと二つ先の駅で一緒に降りよう」
僕は、訳の分からないままに、頷いた。降りれるのだろうか、この電車から。僕は起き上がり、座席に腰掛けた。少年は僕の隣に座った。そして、今日の体育の授業では逆上がりが出来たとか、給食の時間に流れる放送ではいつもエンディングで白鳥の湖が流れるので、みんなしんみりしてしまうとか、他愛のない話を続けた。僕は、上の空で相槌を打っていた。
待ちに待った、二つ先の駅に着いた。少年は、僕の手を引いて、扉に向かう。そして、少年はホームに降り立った。僕も、おそるおそる足をホームに付ける。何も起こらない。僕たちの背後で扉は閉まり、電車は走り去った。ここはどこだろうと、駅の表示を探す。知らない名前の駅だ。環状線に、こんな名前の駅はあっただろうか?
「お兄さん、こっち、こっち」
少年は僕を手招きする。訳がわからないままに、少年の声を頼りに改札に向かう。少年は、改札を通り、僕に箱を差し出す。僕も、改札を通り、少年が差し出した箱の中身を眺める。そこには、自動販売機で売っているガチャポンの、丸い球体がたくさん入っていた。
「はい、好きなのを選んで」
「これは?」
「朝の欠片だよ。ガチャポンを開くと、朝が来るよ」
僕は、キツネにつままれたような思いで、水色の蓋がついたガチャポンを手に取った。ひねって、開く。すると、ガシャポンの中から、眩い光が溢れ出し、走り出した。僕は、目を覆った。目蓋の中にも、光は流れ込んでくる。僕の意識は、光の中に溶けていった。
気がつくと、僕はベッドから転げ落ちていた。枕元に手を伸ばして、スマホで時間を確認する。八時半。背筋に冷水をぶっかけられたような気がして、がばりと起き上がるが、よくよく見ると、スマホの表示が土曜日だったことに安心する。夢だったのか。僕はふうとため息を吐いて、カーテンを開ける。朝の光がまばゆい。
さて、今日はどんな休日にしようと思いながら、テーブルの上に目をやる。そこを見て、僕は目を疑った。そこには空になった麦茶のペットボトルと、水色の蓋のガチャポンが並んでいた。そして、朝の光の中で、環状線の少年が穏やかに笑っていた。
「おはよう、お兄さん」
(ラヴェル作曲:「ボレロ」)
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