第拾弍話 夢の情景
子供の頃に、初めて出会ったその人は、とても気高い人でした。教室の喧噪の中で、ひとり、まるで百合の花のように輝いていました。僕は、息をするのを忘れて、彼女の横顔を眺めました。
彼女がピアノ教室に通っていると知って、僕もピアノを習いたいと思いました。共通項が出来たとはいえ、ピアノ教室でも、学校でも、なかなか話しかける勇気は持てませんでした。百合の花のような、高貴な彼女の横顔を眺めながら、僕はそっとため息をつきました。
僕が通っていた小学校は、全校生徒数も少なかったので、三年間はクラス替えをしないという規則がありました。そのため、四年生から六年生までの期間を、僕は彼女の横顔を眺めながら過ごしました。休み時間も静かに本を読み、たまに話しかける女友達に穏やかに答える姿を見ながら、僕は仲間に誘われてサッカーをしに校庭に走って行くのが常のことでした。僕も教室に残って、彼女と一緒に本を読んでみたい。そう思うこともありましたが、仲間内ではリーダー格だった僕が校庭に行かないとみんなが怪しむので、自分に鞭打って、率先してボールを持って校庭に向かっていました。
それでも、校庭から教室の窓を眺めると、窓際の席に座る彼女の顔が見えることがありました。僕はそうすると嬉しくなって、ボールを力一杯蹴りました。
ある時、教室の窓を見上げると、彼女がサッカーに興じる僕らの姿を眺めていました。彼女と目が合いました。彼女がにっこり笑った気がしました。僕の心臓はどきんと飛び上がってしまいました。そこにボールが飛んで来て、僕は慌ててヘディングしました。もう一度見上げると、彼女の姿はありませんでした。僕は誇らしいような、寂しいような気持ちになりました。
彼女ときちんと喋ることが出来たのは、六年生のピアノ教室の発表会のことでした。六年生で出演するのは、彼女と僕のふたりきりだったので、順番が前後になっていたのです。もちろん、僕の方が先です。舞台の袖で彼女と並んで座って、順番を待ちました。嬉しいけれど、恥ずかしくて、僕は彼女の方を向けなくて、アナウンスのお姉さんを見ながら足をぶらぶらさせていました。
「利根くんのピアノを近くで聴けて、嬉しいな」
ふいに、彼女がそんなことを言ったので、僕はびっくりしました。
「利根くん、いつもしっかり練習してくるから、どんどん上手になっていくって、先生いつも嬉しそうに話してるのよ」
「そうなんだ」
僕は内心、驚きました。先生は、僕の前ではそんなこと、一度も言ったことありません。ただただ厳しく、たまにスムーズにいけたと思うと、ようやくにっこりしてくれるのが、いつものことだったのですから。
「私も、たまに利根くんのピアノが聴こえてくると、音がどんどん変わっていくのがわかって、すごく素敵だな、って思っていたの」
「……ありがとう」
思いも寄らない彼女からの言葉に、僕はどうすればいいかわからずに鼻先を指で撫でました。それは、僕も同じだよ。そして君のピアノの音色がとても素敵だから、その音色に少しでも近付きたくて、僕はピアノを弾き続けてきたんだよ。そんなことはとても言えず、僕は彼女を見つめました。彼女は、舞台からの光に照らされて、百合の花のように、静かに微笑んでいます。
「どうしたの?」
「……ううん。なんでもない」
前の人の演奏が終わりました。アナウンスのお姉さんが、僕の名前を読み上げます。
「それじゃ、行くね」
「うん。いってらっしゃい」
彼女は微笑み、椅子の上に置いていたハンカチを手に取り、楽譜に目を落としました。
舞台の方に、一、二歩進んで、僕は止まりました。
「ねえ!」
彼女は、驚いて顔を上げました。
「終わったら、僕も聴いてるね」
彼女は、ゆっくりと微笑みました。
「……ありがとう」
舞台からの蜂蜜色の光に照らされて、僕らは微笑み合いました。
(シューマン作曲:《子供の情景》より「トロイメライ」)
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