第拾参話 亜麻色の髪の乙女


 昨日の話の続きをしよう。百合の花のように気高い、彼女の話だ。



 六年生のピアノの発表会で彼女が弾いたのはドビュッシーの小品ふたつ。その中に「亜麻色の髪の乙女」も含まれていた。亜麻色、ってどんな色だかは分からなかったけれど、ドビュッシーの胸を掴まれるような和音の構成も相まって、僕にとっては特別な曲になった。



 演奏を終えた僕らは微笑み合って、全員での集合写真では隣同士になって写った。



 それから、卒業式までは間がなかった。慌ただしく三月の時は過ぎ去り、僕らは中学生になった。彼女は、私立の女子校に行ってしまった。



 それでも、ピアノが僕たちを結びつけていた。週に一度、ピアノの先生のところに通うのが、僕にとってのささやかな幸せだった。レッスン時間はいつしか、僕と彼女は続きになった。たまに先生が、僕たちふたりに紅茶を淹れてくれることもあった。先生が焼いてくれたお菓子を食べながら、僕たちはお互いの学生生活を話した。大抵は、僕が話して、彼女が笑いながら聞いていた。



 そんなお茶会の最中だった。



「先生、私、引越することになったんです」



 彼女の言葉が、よく聞こえなかった。いや、耳が理解を拒んだのだ。



 その後も、隣の県に引っ越すこととか、ひと月半後には出発しなければならないとか、先生と彼女は話していたけれど、僕は紅茶のカップを手にしたまま、動くことが出来なかった。何も言葉を発する事が出来なかった。



「最後に、三人で演奏会を開きましょう。そして、盛大なお茶会をしましょう」



 先生は、そんな提案をしてくれた。僕は、頷くのがやっとだった。



「プログラムは、それぞれに任せるわ。でも、アンコールもきちんと準備するのよ。そして、先生にこっそり教えてね。きちんとプログラムを作るから」

「わあ、嬉しい。ありがとうございます」



 嬉しそうな声を上げる彼女を、僕は眩しく眺めた。先生は、僕たちふたりの肩に、そっと優しく手を置いてくれた。



 やがて、三人の小さな演奏会の日が来た。僕たちはささやかな正装で先生の家に向かった。



「今日の記念に、プログラムは最後にお渡しするわね。では、まず長谷川さんから」



 彼女は、僕たちの拍手を受けて、はにかみながらお辞儀をした。彼女が選んだのは、ドビュッシーの「喜びの島」だった。ずっとレッスンを続けていた大曲だった。今日に向けて、完成させたんだな。僕はそう思うと、胸が一杯になった。アンコール代わりに彼女が弾いたのは、同じくドビュッシーの「月の光」だった。



「ありがとうございました。では、次は利根くん」



 ふたりの拍手に包まれて、僕はお辞儀をした。



 僕は、この日のためにこっそり練習したドビュッシーの「二つのアラベスク」を弾いた。彼女の目が丸くなった。そう、いつか彼女もレッスンで弾いていた曲だった。子供の時からずっと変わらず、ドビュッシーの音楽が好きな彼女の喜ぶ顔が見たくて、選んだ曲だった。



 演奏を終えると、ふたりが大きな拍手を送ってくれた。僕はぎこちなく笑い、アンコールの曲を弾こうとピアノに向かった。



 最初の一音を弾いた時、彼女の瞳が潤んでいくのがわかった。僕が最後に選んだのは、「亜麻色の髪の乙女」だった。最初に僕たちが言葉を交わした、六年生の発表会で、彼女が弾いていた曲だ。



 僕の視界も滲んでいきそうになったが、目を大きく見開いて、力を入れて、踏み堪えた。先生は穏やかに僕たちを見守っていた。





 その時に、先生が作ってくれたプログラムは、今でも僕たちの宝物だ。



 僕と彼女──妻の間には、いま小さな命を授かっている。妻は、愛おしそうにお腹を撫でる。休みの日、僕は彼女に請われて、時々ピアノを弾く。ドビュッシーは、今でも僕たちにとって特別な作曲家だ。



 妻のお腹の中にいる子は、女の子だという。妻は、優しい声で「亜麻色の髪の乙女」の旋律を、お腹に向かって歌いかける。そういえば、妻の髪は子供の頃から、美しい栗色をしている。僕はそっと、妻の髪を撫でた。




幻想音楽奇譚

名曲の調べと共にお届けする、不思議な物語。

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